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天下分け目の関ヶ原の戦いの前の年、 慶長4年(1599年)、東海道を旅する 身延山久遠寺第19代法主法雲院日道上人がここに一夜の宿をとられ、自らが開山となり、 延山直末の寺として開かれた寺院です。 以来、今日まで28人の住職が継承してまいり ました。 当時、ここには荒れ果てた草庵が朽ちかけて いたそうで、寺から20メートルほど緩やかな 坂を上ると、江戸(現在の東京)と京都を結ぶ東海道に出ます。
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幕府が発効した街道の詳しい絵地図によりますと、その右の角に「虎御石」という名物の石が置いて あり、広重や北斎という人気画家も筆に残しています。
この石こそ、鎌倉時代の伝説の舞姫、虎御前の誕生のきっかけとなり、曾我兄弟の兄、十郎佑成の 「身代り石」と伝えられる御霊石「虎御石」です。
また、この庵はこの寺の古文書によると、「当寺は元法虎庵と称し、虎御前の草庵なり。 中古大磯宿の東林の辺虎池に創設ありしを永禄年間(1558年)に今の寺に移す」とあります。
朽ち果てた草庵には十郎の想われ人、虎女、すなわち虎御前が兄弟亡き後、19歳で尼となり、 この石を兄弟とも思って大切に守り暮らした法虎庵の跡と伝えられています。 寺は江戸から明治にかけて三度大火に焼かれ、仮のお堂で70年が過ぎました。 28代目の住職は60余軒の檀家と力を合わせて再建計画をスタートし、昭和57年には本堂、書院、 庫裡の完成を祝い、以後山門、水屋を再建し、平成16年(2005年)法虎庵曽我堂の再建が成り、 付属の納骨堂、動物墓苑も完成し、25年がかりでの復興事業は完成しました。
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鎌倉時代、大磯の湘南平の麓に山下長者 (お寺の縁起では本名 伏見大納言藤原実 基卿) と呼ばれる方が住んでおられました。
子供に恵まれなかったところから持仏の虎池弁財天に祈願したところ、夢枕に弁天様が立たれ、
「願いは叶う」とのお告げ。目が覚めてみると、 枕元に小さな石があったそうです。
この石を弁天様のお告げとして大切に仏間に安置してお経を上げていると、お内儀が身ごもり、 安元元年(1175年)正月、虎の日、虎の刻、 玉のような女の子を授かりました。
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長者はこの子に弁天様と生まれた日にちなみ、「虎」と名付けました。 さて、虎女誕生のもととなった石は大切にされましたが、不思議なことに、虎女とともに大きくなり、 「生きている石」安産子授けの御霊石として崇められ、屋敷の中に祠を作って奉られました。また、 虎女こそ、後に舞の名手、虎御前となるのです。
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当寺の大磯には鎌倉幕府の重要人物達がよく
訪れ、虎御前はそうした人々に見事な舞を披露
していました。
そうした客のなかに曾我兄弟の親の敵、
工藤祐経がいたのです。敵工藤の動静を探る兄弟も大磯に来ることと
なりました。
いつしか兄弟の兄十郎と虎女は恋仲となりました。
これを知った工藤祐経はある夜大磯の長者の
屋敷に刺客を放ちました。
兄弟を殺そうとしたのです。
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一夜が明けてみると、不思議なことに、庭の祠に奉ってあったご霊石には刀の傷と矢の跡がついてい
たのです。 討手はご霊石を兄弟と間違えてこれを襲ったのです。
兄弟は大厄を逃れめでたく親の敵を討つことができたのです。
しかしながら、兄弟は共にその生涯を終え、19歳で尼となった虎御前はご霊石を兄弟とも思い、大切にお守りして嘉禄3年2月13日、55歳でその生涯を終えました。 |
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法虎庵曽我堂にはご霊石のほか、虎池弁財天(平安時代)、 兄弟座像、虎御前19歳剃髪之像、 広重と北斎の浮世絵「虎ご石」、国芳作「夜討ち曽我」、 広重作連作「曽我物語図絵」16枚、 虎女舞姿、三浦左右衛門「五郎赦免願い状」等が展示、 奉安されています。
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